serious bunburying

隕石で手をあたためていましたがこぼれてしまうこれはなんなの

メディア不信 感想

 一年時に取っていた政治学の授業で日本におけるメディアとの付き合い方をディベートしたことがある。その時グループ内で上がったのはメディアリテラシー教育を徹底する、という案で、あくまで現行の制度を維持した状態でメディアとどう付き合うかについて考えていた。その理由としては、他の国では具体的にメディアが社会に対してどのように機能しているのか知らなかったことと、本書でも指摘されているようにメディアの将来が不明瞭であることが挙げられる。

 しかし、それはあまりにも考え不足だったということが冒頭の「現代社会にたちこめる『メディア不信』の空気は、個々人が『フェイク・ニュース』に騙されないように勉強し、各企業が偽ニュースを削除すれば解消されるというわけではなさそうだ」という言葉から分かった。

 “メディア不信” は発信する側と発信される側にここ最近になって問題が生じたから発生した事態ではないということ。それが一番本書を読んで勉強になった。今までずっと社会に深く根ざしていて溜まりに溜まった問題が今吹き出したのだと。それを変えるには既存概念から考え直していかなければならないと強く感じた。

 ドイツの右傾化、イギリスの大衆紙の影響力によるbrexit、アメリカのビックデータによるトランプ戦略の成功、すべては「『リベラルな民主主義』…への敵愾心」という言葉が物語っているように思う。メディアはある意味で権威だ。メディアがかつての自由主義的な立場ー権力から距離を取り監視する立場ーから、民主主義重視の立場ー民衆との対話を(ツイッターなどを利用することで)重視する立場、へと移行する中で政治家もネットに登場しフォロワーを増やし続ける。たしかに、NHKで以前ツイッターのつぶやきを番組内でも取り上げて議論する番組を見かけたことがある。しかし、そういった番組はあくまで一部であり、特に政治と関係する番組でそのような体制を取っているのはごく少数だというのが私の実感で、メディアの出遅れ感は否めない。そうしているうちに特定の政治家をフォローする人間は未だ権威主義的なメディアを叱責する。かつては市民の側にいたメディアが、政治と位置を逆転してしまった。もっともこうした現象は国民の中でも一部の右翼の人にしか当てはまらない話ではあるかもしれない。しかし、このような状況が加速すればメディアの報じている内容に関わらず、メディア自体を批判、さらにはメディアが政治の監視という役割を行使できない状態になってしまう可能性が一番恐ろしいと私は思う。

 本書でも少し触れられたが、「1984年」というジョージ・オーウェルの小説を私はたまたま読んでいる最中だった。  その世界では国家が国民生活に関わる部分のほぼ全てを管理しており、過去に起きた事態で国家にとって都合の悪いことがあれば、それに関する発行物は全て都合の良いように捨てられるか、書き直される。例えば、昨日まではA国と対戦していたのに今日からB国と対戦することになり、A国とは同盟関係を結ぶことになった、ということを国民に発表した数時間後には数年前からA国とは同盟関係であったかのように街中のポスター、雑誌、新聞すべてが回収され書き換えられてしまう。いわば過去の書き換えである。その世界に正しい歴史の証拠は存在しない。その状況も恐ろしいが、何より恐ろしいのはこれに対する登場人物の受け止め方である。主人公もその恋人も心のうちでは国家に対して反逆者であることに変わりはない。しかし、主人公は過去の書き換えに対して強い反発心を抱いていて「(現実の具体的証拠があれば)レジスタンスの小さな集まりが…記録を残すようにさえなる。…次の世代はぼくたちが途中で止めたところから引き継いでやっていける」と主張する。一方、恋人は「(事実が国家の主張と違っても)誰がそんなこと気にするの?」「わたし、次の世代なんかに興味はないの。興味があるのは今のわたしたち」と言う。「…ある意味では、党の世界観の押し付けはそれを理解できない人々の場合にもっとも成功していると言えた。…かれらは自分たちがどれほど理不尽なことを要求されているのかを十分理解せず…理解力を欠いていることによって、かれらは正気でいられる。かれらはただひたすらすべてを鵜呑みにするが、鵜呑みにされたものはかれらに害を及ぼさない。」

  一見自分たちには関係ないように思えるが、アメリカのトランプ政権をとりまく市民の反応はこれと通じるものがあるように感じた。本書にあるケリアン・コンウェイの「オルターナティヴ・ファクト」という言葉。「多くのトランプ支持者たちにとって自分たちの言い分は永遠に正当化されないし、正当化される必要もない…いつも後回しにされていた自分たちは、ようやく米国の正当な社会の仲間入りをした…トランプ政権は新たな価値創造の証であり…トランプ支持者にとって「フェイク・ニュース」や「オルタナ・リアリティ」を既存メディアやエリート知識層によって「ファクト・チェック」されることなど興味も関心もないのであろう。」

 そして、アメリカだけではなく日本人の無関心さ、言い換えれば、理解力をあえて(?)欠くことでやり過ごそうとする雰囲気もこれと似たような側面があると感じる。

 このタイプのメディア不信に対して筆者はファクトチェックではなく、社会全体をつなぐような公共的基盤を社会に提供できるかが課題だと述べている。

 私としては、まず、このメディア不信の状況が続けばどうなってしまう危険性があるのかをできるだけ多くの人々に周知させることが先決で、その上で、自分たちの行動が社会に大きな影響を及ぼすことを実感できるような仕組みを作る必要があると考える。これは私の実感だが、日本の政治に国民があまり関心を示さないのは国民からの働きかけに政治がうまく応えていないと国民が感じてしまっているからではないかと思う。世論と政治の現場の架け橋となるのがメディアだ。その未来について、メディアコムに入った今、より深く考えてゆきたいと、この本を読んで改めて思った次第である。

 

メディコムの課題。はてなブログだと字数が表示されるのでpc代りに使った。初心を忘れないためにもそのまま公開しておく。二千字超えて2500字だけどまぁ平気かな。