serious bunburying

心のメモ感覚で書いてます。

思考と言葉

昨日、丸山さんにお会いした。

当初のぼんやりとした予定だとその内容を簡潔にあとでこちらにまとめようと思っていたのだけど、とんだ誤算だった。というか傲慢。本を読んだ時にすでに感じていたことだけど、一つの話題が出てからものすごく様々な方向へと思考がとんだ上で元の話に戻る。戻った時、私たちが元の話がさらにいろいろな角度から見えるようになる。そんな人だった。まさに1つの番組のような。だから、サラッとまとめて昨夜の話をすることはすごく難しい。書評で「夢遊病のよう」と書かれたらしいけれど、たしかに納得できなくもないな・・・と思う。でも、夢みたいに支離滅裂なわけではない。あくまで丸山さん本人の思考回路を言語化されたものを少し覗かせていただいている、そんな気分になった。初めての感覚だった。

 

言語化、についての話をした。

 

(以下、会話の内容が「」で出てくるけれど、多少ニュアンスの違いであったり私が曲解してしまっている部分があるかもしれない。)

 

萩さんが「今の世の中って、黙っていると何も考えてない人のように思われるじゃないですか、『あいつ何も考えてない』って。そういうのすごい昔から嫌で、そんなわけないじゃん、考えてるにきまってるじゃん。って思っていたんです。でもやっぱり言語化できないとそう思われてしまうのは事実で、今日丸山さんからよどみなく言葉が出てくるのを聞いてすごいと思ったんです。」たしかこのような発言だったと思う。

 

それに対して丸山さんは「もしかしたらそういうことが今世の中で圧力になっているのかもしれない」というお話をされた。「実は、爆笑問題の太田さんは学生時代いじめられていて友人が田中さんしかいらっしゃらなかったんですよ。打ち合わせの時も、きっといろいろ考えているけれど言葉にしない、本番の時のために言葉を取っておいているというより、言語化できないという感じなんです。」これを聞いたとき、なぜかわからないけれど私の中で何か安心感のようなものが広がった。「私もどちらかというとそういうタイプの人間で大学時代や、局に入った後もいろいろと考えてはいるんですけど黙っていたので『ぼーっとしたやつ』とか逆に『考えすぎ』だとよく言われていたんです。どちらにせよ使えないやつだと。たしかにわかりやすい人や話の方が好まれる。今世の中すべてそうですよね。けれど、言葉にできない思いのほうが確実に熱い(?)重いはずなんです。言葉になったものなんてスープの上澄みのようなもので。だから、言葉にできない思いのほうを大切にしたほうが良い、そういう時代に入ってきていると思うんです」

 

前回?の記事で書いたかもしれないけど私は自分の考えを言語化できないときに涙が出る。だからこの話はすごく刺さった。言語化できないと悔しくて涙がでる。そこまではわかっていた。けれど、なぜ悔しいのか?ということまで考えが至っていなかった。世間の圧力。言語化できないやつは何も考えていないように思われる。痛いほど思い当たることがあった。大学に入ってから、特にそういうことに敏感になった。苦しかった。部室にいても周りはみんな言語化が得意なタイプに思えて、私は萩さんなんて特にそれが得意なんだと思っていた。(本人は言語化が苦手だ、と言っていたけれど。)だから、私ももっと話が上手にできたらなあ、と常々思っていたし、けれど何を話したらいいのかそもそも思考自体がまとまっていなくて、珍しくまとまっていてせっかく口を開こうとしても、「これを話したら場をシラけさせてしまうのではないか」とか「これは苦笑いされて終わるな」とか「こんなこと言ってもあの人のほうが面白いし」とかモヤモヤして口を閉ざしてしまう。そうしていくと、劣等感が積み重なっていって話すことが怖くなっていく。

プライドが高いからなのか?と悩んだこともあった。そんな自分が嫌で嫌で、素直に自分の考えを、周りなんて気にせずにいえる友人がとてもうらやましかった。

 

けど、そういう圧力が世間にあるという考え方はしたことがなくて、というかこれで苦しんでいるのはまたもや傲慢なことに私だけなのではないかと思っていて、だから、救われた気分になった。なんなんだろうね。だからコミュ障だって言われる人ほどツイッタラーだったりするのかな。(もちろん例外はたくさんあるけど)

言語化できない思いはどうしたらいいのだろう。ひとまず自分の中や他人の中にあるその存在を受け入れること。表面化したものだけをすべてだと思わないこと。これが大切なのではないかな。そのうえで、相手に伝えられるように自分の中で表現の幅を増やしていく。あぁ、勉強したいな。

 

勉強の話もした。本の中にもあったけれど、大学時代丸山さんは自分の軸足となるようなものがほしくてすごく勉強されたらしい。哲学書であったり、教授の話であったり。当時哲学書を読むのがブームだったらしいことに対して私は驚いた。今は読書しない人すらいるのに。話がそれた。丸山さんはブームに乗っかったわけではなく、勉強をしていたらしい。ちょっと、いや、かなりわかる。特にメディアのことについて本を読むたびに既存の学問分野から自分の思考の基盤となるような、いうなればコンパスになるようなものを築きあげたくなる。ツイッターをやっているときも。あれは見続けていると馬鹿になるような気がしてならない。スワイプすると同時に前見た情報も頭から抜けていくような・・・・頭の入り口と出口に穴がぱっくり開いて貫通してしまったような気分。だから、そういうのではなくてアナログ媒体でうんうんうなりながら自分の頭にしみついていく知識が欲しい。流されていくのではなく、どっしりと構えていられる大人になりたい。これは高校の時からの目標でもある。

 

大人の方に大学に入ってからの勉強を聞く機会はあまりなくて、丸山さんが東大の駒場キャンパスの近くに家を構えて慶應と東大を行ったり来たりしていたという話を聞いた時にはかなり衝撃を受けた。「単位を取る授業より冷やかすような気で見に行く授業のほうがよっぽど身に入る」。まさにその通りだと思う。私も行ってみようかな。面白いのは、私が一昨日の晩に近代思想史の石川先生の話をしたら丸山さんが潜りに行こうかな、といったこと。なんだか昔の丸山さんもきっとこんな感じだったのかな、と思った。人が良いといったものに対するアンテナの張り具合がすごい。「ふーん」で終わらせないのがすごい。私たちとわざわざ時間をとってくださったのもこういう姿勢が根本にあるからではないかと思う。見習いたい。

 

教授(今回は他大の講師だけど・・・)とごはんなんて言うと今はみんな驚くけれど、昔は普通のことだったらしい。教授から生徒に飲みに行こうと誘うことも珍しくなかったとか。今はいろいろと制限があってそういう機会も減ってしまったらしい。けど、丸山さん曰く教授はそうした状況に悲しんでいるらしくこちらから誘ったらうれしいのではないかということ。(あれ、これは萩さんの言っていたことかもしれない)近代思想史の先生ともこんな風にお話しできたら面白そうだなぁとぼんやり考える。

 

昔は・・・って話から、昔の本質は今でも変わらないという話へ。

小さい頃の性格は今でも根っこのところで一緒だという話をした。夏休みの宿題をどのように進めるかが仕事の進め方に表れていたり。私はちょびちょびやりつつ最後のほうでガッと進めるタイプだった。そういうタイプの人にガミガミ言ってもやらないのは大人でも変わらないらしい。人によって背中の押し方も変えるって家庭教師に生かせそうなスキルだな。あんまりガミガミ言わないようにしよう・・・。

私自身も最初からコツコツやるタイプではない(けど周りより始めるのは若干早い)っていうのを自覚してからメリハリをつけるようになった気がする。やる気がでないときはパーッと遊んじまえ、興味のあることをやれ、って。

環境に合うところに入るのが理想だよなぁ、職場なりなんなり。

 

話がそれた。

 

昔の話の1つに、さっきの大学のキャンパスに入り浸っていたころの話。

以前はネット上にシラバスなんてものはなくて、現地の掲示板で何の授業があるか確認しなくてはいけなかったらしい。「わざわざそんな大変なことしながらWスクール(?)的なことしてたんだ!」って思ったけど本人曰く「その方がより燃えた」らしい。SNSで見れてしまうから安易なもののように見えるっていう点を考えるとSNSが使えない昔のありがたさのようなものがあったらしい。

そこからTwitterの話になって、気軽な連絡手段としてなぜかアカウントを交換。アカウントが複数(私の場合は6つ。本名・サークル用・こけこっこー・趣味×2・フレキャン用)あることを伝えたら丸山さんがすごく驚いていた。感覚がマヒしてこれが普通、アカウントごとに発言内容を変えることが普通・・・だと思っていたけれど普通に考えて普通じゃない、おかしいことだよなぁ、生きづらいよなぁ、という話に。

いや、実際問題めんどくさい。特に実名アカウントとか嘘はついてないけどすごくつぶやきにくいし。人って変わるものだけど、実名アカウントは高校までの私しか知らない人が多いからなかなかつぶやけない。もちろん高校から特にキャラが変わってない人はそのまま実名アカウントで良いけど、大学になって私はかなりオープンになったと思う。でも、それは無理してキャラ変してるわけではなくて高校の時の私も今の私も本当の私で嘘なんてついていない。根本にあるナイーブさとか妙なテンションの高さとかは変わらない。それなのにどうしてツイート内容にこんなに差があるんだろう?どこかで、「こいつ大学に入ってから変わったよな、昔はこんなんじゃなかったのに」といわれることに恐怖を感じているのだと思う。言語化できる・できないの話をしたときもそうだけど、私って、いや私に限らず、人から影響を受けることって当然だしそれによって内面だって思想だって少しずつ変わっていくのは当たり前。それによって発露されてくる言葉が変わるのも当たり前。だけど、一度会った他人に対してどうしてもステレオタイプをつけたがる。この人はこういう人だ、というステレオタイプ。それなのに、そこからあまりにもズレたものがその人から現れると少し引いてしまう。あれ、どう接したらいいんだ?私の中の予想と違うぞ、と。人の変化を受け付けない部分・・・というかそういう風潮が世間に流れているのではないか。私にはそれがすごく窮屈に感じる。あなたの中の私のイメージなんて壊れてしまえ、って。私のイメージを勝手に決めつけるな、そのイメージが余計私の行動を制限させるんだ。って。

でもそんなことしたら周りから人が消えてってしまうのではないか。幻滅されるのではないか・・・・。自分の中に臆病な部分とそれを許せない部分が同居している。

結局、今の自分でも許してくれそうな人のためだけのアカウントを作ってその中で自分のしたい表現を発露、自己表現をする、という問題の根本的な解決にはなっていない措置をとってしまう。

 

そこまでしてなんでSNSやるの?やめちゃいなよ。

 

そんな考えに至ってたまに一切SNSを開かなくなることもある。けど、やっぱりほかの人の境遇とかは気になって見てしまい、そのうち自己表現、自己主張をしたくなってしまい・・・・・のループ。

 

何が私たちを動かしているんだろうな。

 

 

だいぶ話がそれた。

 

 

丸山さんとお話したのはたったの3時間程度だったけど、やっぱり世代が違うから感覚も私たち若い世代とはズレていてとても面白かった。話をしている最中ももちろん楽しかったけど、帰ってきてじっくり考えることでより面白かったなぁ、と思えた。

次お会いできるのは6月だろうか。それまでにもう少し日本語をうまく使えるようになりたいなぁ、と思う。今回書き漏らしていたことを思い出したらまた書くかもしれない。