Serious Bunburying

隕石で手をあたためていましたがこぼれてしまうこれはなんなの

かわいいは健康

最近「美」について考える。

 

ダイエットがうまくいかない。かわいくない。ミニスカートが似合わない。足太い。あーまたパン食べちゃった・・・

 

とか考えてると精神的にどんどん参ってくるのは女子なら経験あるのではないかと・・・。

でも、ダイエットのために好きなものを我慢するって、かわいいのために好きを犠牲しているようで、それってどうなの?って思うわけです。

かわいい、好き、ってどちらもポジティブな感情で、どっちも両立するべきものなのではないかと。

かわいいと我慢って別ものなんじゃないかと。

 

どうにかして好循環を作れないかなぁ~と思う。

最近気づいたのは、ダイエットがうまくいっていても爆食いしちゃうと次の日もその爆食い習慣が尾をひくということ。胃が大きくなっちゃうのかもしれない。

あと、愛情がたりてなかったりストレスがあるとついつい食べ物に走っちゃう。

保存料・化学調味料の入っているもの、たとえばスナック菓子とかインスタントラーメンとかも、すぐ肌が汚くなるし中毒性があるのかわかんないけど、止まらなくなってしまう。

 

そう考えると、ダイエットとか美容を妨げるのは「不健康なもの」であって、健康な生活をしていればおのずと痩せていくのではないかと・・・

 

思い出すと3か月前に私は個人的健康キャンペーンをひらいていた。

・どうしてもお腹がすいて集中できなくなったら、変なものが入っているお菓子じゃなくて、少し高めの良いお菓子を少し食べる

・スナック菓子があったら隠す

・お米とかパンも食べていいけど、全部腹8分目(ちょっと足りないな~と思うくらい)でとめる

・いっぱい水分(おなかを冷やさないように常温かホットのもの)をとる

・毎日体重計にのる

代謝をあげるのが良いと聞いたのでお風呂に入る前に軽く筋トレをする

・お風呂からでたあとにストレッチとオイルでマッサージをする

・姿勢をよくする

・7時間は寝る

 

などなど思いつく限りの「健康」をしてたわけです。そしたら自然に一週間に3キロ減ったしかわいいって言われるからうれしくてストレスも減り、好きな服も着れる。スナック菓子とかを欲さなくなる・・・・・・などなどすごい良い効果がでまくったわけです。

 

なんで今これが続けられてないかというと新歓イベントの合宿のごはんの量が多くて、けど残さないように食べてしまったり、新しい環境でストレスがあったり・・・・。

健康生活維持するのってめちゃくちゃ難しいんです。

 

けどあの時期に戻りたいな~~と思ってまた挑戦しよっかな、って。

それで思い起こしたらかわいいって健康だよな~って。思った次第。別に好きなもの我慢しなくてもいいけど適量が大事だし、体の声をきくのって大事だよね~。

 

淡い

 

「手料理、ひさびさに食べた」

 

と恋人がお弁当を食べながらふとこぼしたのを思い出した。

 

今日の夜7時ごろ、食べたくもない夕食をみんなに合わせてコンビニで買おうと、うろうろしていたらミックスサンドを発見した。ミックスサンド。たまごのサンドとツナサンド、ハムレタスチーズのサンドの三つ入りで200円と少し。他のサンドイッチよりもお得感があるので、私と恋人は好んで買う。

 

前に買ったのは、東川口の駅だった。

 

行為をしたあとだったのでひどく空腹で、(私たちは大抵5時間くらいかけるのでクタクタになる)私の電車が来るまでの時間に何か買おうとニューデイズに入った。

 

恋人がそのときに、これいつも買っちゃうんだよなー、と言いながらミックスサンドを手にして、私もそうしよう、と思って2人で買った。

 

ニューデイズを出ると電車の出発時間まであと3分で、時間がないな、と思い「じゃあ、また」と恋人にいうと、

 

「え、一緒に食べようと思ったのに…まぁ、しょうがないね!またね!楽しかった!」

 

と言いながら彼は踵を返して去って行った。

 

そのときは、あ、悪いことしちゃったかな、くらいだったけど、今ならわかる。

 

1人で食べるミックスサンド、もしくはコンビニの料理ほど不味いものはこの世にないと思う。

 

一食にしてはあまりにも柔らかすぎて、食べた気はしない。ツナも味が濃ゆすぎるし、たまごは保存料の味がする。不自然な黄色。レタスもペラペラの一枚。

今日これを東海道線グリーン車で食べながら、少し泣きそうになってしまった。

彼はあのあと一人でどんな感情でこれを食べたのだろう。あの人のことだから今の私ほど味わってはいないだろう。そうであってほしい。これはゆっくり食べるほど虚しくなる。丸呑みするくらいがちょうどいい。

 

もう、一人の時はコンビニでご飯なんて買いたくないと思ったし、恋人にはちゃんとした手料理を毎晩食べて欲しい。食べ物が不味いと、それを摂取した身から心へ悪いものが流れてくる気がする。

 

昨日から帰省しているけど、恋人は母の手料理をちゃんと食べているだろうか。愛情のこもった料理を、彼が食べていますように。

とりとめのないこと

電車の反対の座席に座る、小さな女の子の目がキラキラ大きく輝いていた。

 

友人が呑んだくれになっていて禿げの面積が増えていた。ふっくらしていた。

 

余裕のなさそうな顔立ちの人が余裕のない表情を浮かべてレジへ走って来た。

 

普段と同じ化粧をしていったのに、普段より白いね、ペインティング頑張ったの?って言われた。

 

土砂降りの朝から一転、相鉄線の特急から見る空は一面真っ青だった。

 

顔立ちに人相が出ると話している本人には哀愁が漂う。例えるなら高校の頃はダークグレー、今は透明感のある藍。

 

どこか人とのコミュニケーションの仕方が、恋人に似てきている気がした。

 

付き合いってなんだ、という話になって語っていたらお互い恥ずかしくなってしまった。

 

娘を見る母親の表情が柔らかい、と思ったらうとうとしているだけだった。

 

サラリーマンは大抵脚を広げてバッグを膝において座りながら眠っている。

 

話す上でこれっぽちも言語化できていない気がするのは何故だろう。

 

あの子が恋人と別れたらしい。けど、その結果もっと綺麗になるんだろうな。

 

美的感覚が違うけど、そのズレについて私は言葉に出して批判するまでの勇気を持っていない

 

女の子がアンパンマンと叫びながら電車から降りた。

 

 

 

 

 

入ゼミ課題2

①志望動機

 少人数ゼミの方が自分の意見をより伝えやすいと思ったことと、現行メディアの制度の問題点を学びたいと思っていて、メディア法についても興味があったため。また、鈴木ゼミにいる知り合いの先輩の話から雰囲気が良さそうだと感じたため。

②ゼミで研究したいこと

 ジャーナリズム、メディアが社会に及ぼす影響、政治とメディア、報道制度、メディアの国際比較

③趣味・特技など

 趣味はピアノ、歌、読書、掃除、最近は料理にもハマっています。ピアノサークルに所属していて、その仲間と色々なところに行ってお話することも好きです。自分でふと気になったことを文字に起こしながらじっくり考えることも趣味の1つです。

特技と言われると難しいので、人から褒められることを。

洗濯物畳みとアイロンがけは家族の誰よりも上手です。人の話を聞くことが好きで、話すことよりも得意です。感情表現が豊かです。自分の気持ちにうそをつくのが苦手で、そこが良いと言ってくれる人は多いですが、正直すぎて困る場面もあります。

…春休み、家にいる時間が多いせいでしょうか、主婦のような回答になってしまいました。

 普段は結構アクティブでフットワークも軽いので各方面から誘われることが多いです。何にでも興味を持って、そこから行動に移すのが早いと言われます。  やらないで後悔よりやって後悔、無駄なことは1つもない、と思っているので恥をかくことが多いですがこの姿勢を貫きたいと思っています。

メディア不信 感想

 一年時に取っていた政治学の授業で日本におけるメディアとの付き合い方をディベートしたことがある。その時グループ内で上がったのはメディアリテラシー教育を徹底する、という案で、あくまで現行の制度を維持した状態でメディアとどう付き合うかについて考えていた。その理由としては、他の国では具体的にメディアが社会に対してどのように機能しているのか知らなかったことと、本書でも指摘されているようにメディアの将来が不明瞭であることが挙げられる。

 しかし、それはあまりにも考え不足だったということが冒頭の「現代社会にたちこめる『メディア不信』の空気は、個々人が『フェイク・ニュース』に騙されないように勉強し、各企業が偽ニュースを削除すれば解消されるというわけではなさそうだ」という言葉から分かった。

 “メディア不信” は発信する側と発信される側にここ最近になって問題が生じたから発生した事態ではないということ。それが一番本書を読んで勉強になった。今までずっと社会に深く根ざしていて溜まりに溜まった問題が今吹き出したのだと。それを変えるには既存概念から考え直していかなければならないと強く感じた。

 ドイツの右傾化、イギリスの大衆紙の影響力によるbrexit、アメリカのビックデータによるトランプ戦略の成功、すべては「『リベラルな民主主義』…への敵愾心」という言葉が物語っているように思う。メディアはある意味で権威だ。メディアがかつての自由主義的な立場ー権力から距離を取り監視する立場ーから、民主主義重視の立場ー民衆との対話を(ツイッターなどを利用することで)重視する立場、へと移行する中で政治家もネットに登場しフォロワーを増やし続ける。たしかに、NHKで以前ツイッターのつぶやきを番組内でも取り上げて議論する番組を見かけたことがある。しかし、そういった番組はあくまで一部であり、特に政治と関係する番組でそのような体制を取っているのはごく少数だというのが私の実感で、メディアの出遅れ感は否めない。そうしているうちに特定の政治家をフォローする人間は未だ権威主義的なメディアを叱責する。かつては市民の側にいたメディアが、政治と位置を逆転してしまった。もっともこうした現象は国民の中でも一部の右翼の人にしか当てはまらない話ではあるかもしれない。しかし、このような状況が加速すればメディアの報じている内容に関わらず、メディア自体を批判、さらにはメディアが政治の監視という役割を行使できない状態になってしまう可能性が一番恐ろしいと私は思う。

 本書でも少し触れられたが、「1984年」というジョージ・オーウェルの小説を私はたまたま読んでいる最中だった。  その世界では国家が国民生活に関わる部分のほぼ全てを管理しており、過去に起きた事態で国家にとって都合の悪いことがあれば、それに関する発行物は全て都合の良いように捨てられるか、書き直される。例えば、昨日まではA国と対戦していたのに今日からB国と対戦することになり、A国とは同盟関係を結ぶことになった、ということを国民に発表した数時間後には数年前からA国とは同盟関係であったかのように街中のポスター、雑誌、新聞すべてが回収され書き換えられてしまう。いわば過去の書き換えである。その世界に正しい歴史の証拠は存在しない。その状況も恐ろしいが、何より恐ろしいのはこれに対する登場人物の受け止め方である。主人公もその恋人も心のうちでは国家に対して反逆者であることに変わりはない。しかし、主人公は過去の書き換えに対して強い反発心を抱いていて「(現実の具体的証拠があれば)レジスタンスの小さな集まりが…記録を残すようにさえなる。…次の世代はぼくたちが途中で止めたところから引き継いでやっていける」と主張する。一方、恋人は「(事実が国家の主張と違っても)誰がそんなこと気にするの?」「わたし、次の世代なんかに興味はないの。興味があるのは今のわたしたち」と言う。「…ある意味では、党の世界観の押し付けはそれを理解できない人々の場合にもっとも成功していると言えた。…かれらは自分たちがどれほど理不尽なことを要求されているのかを十分理解せず…理解力を欠いていることによって、かれらは正気でいられる。かれらはただひたすらすべてを鵜呑みにするが、鵜呑みにされたものはかれらに害を及ぼさない。」

  一見自分たちには関係ないように思えるが、アメリカのトランプ政権をとりまく市民の反応はこれと通じるものがあるように感じた。本書にあるケリアン・コンウェイの「オルターナティヴ・ファクト」という言葉。「多くのトランプ支持者たちにとって自分たちの言い分は永遠に正当化されないし、正当化される必要もない…いつも後回しにされていた自分たちは、ようやく米国の正当な社会の仲間入りをした…トランプ政権は新たな価値創造の証であり…トランプ支持者にとって「フェイク・ニュース」や「オルタナ・リアリティ」を既存メディアやエリート知識層によって「ファクト・チェック」されることなど興味も関心もないのであろう。」

 そして、アメリカだけではなく日本人の無関心さ、言い換えれば、理解力をあえて(?)欠くことでやり過ごそうとする雰囲気もこれと似たような側面があると感じる。

 このタイプのメディア不信に対して筆者はファクトチェックではなく、社会全体をつなぐような公共的基盤を社会に提供できるかが課題だと述べている。

 私としては、まず、このメディア不信の状況が続けばどうなってしまう危険性があるのかをできるだけ多くの人々に周知させることが先決で、その上で、自分たちの行動が社会に大きな影響を及ぼすことを実感できるような仕組みを作る必要があると考える。これは私の実感だが、日本の政治に国民があまり関心を示さないのは国民からの働きかけに政治がうまく応えていないと国民が感じてしまっているからではないかと思う。世論と政治の現場の架け橋となるのがメディアだ。その未来について、メディアコムに入った今、より深く考えてゆきたいと、この本を読んで改めて思った次第である。

 

メディコムの課題。はてなブログだと字数が表示されるのでpc代りに使った。初心を忘れないためにもそのまま公開しておく。二千字超えて2500字だけどまぁ平気かな。

貞操観念

 

貞操観念:女性が、異性関係について純潔を守ろうという考えのことを幅広く指す表現。

 

私の周りの友人は、割と貞操観念に対してゆるい人が多い。若いうちは遊んどけ、という考え方の女友達。私自身も社会の暗黙のルールで自分の行動が縛られるのは好きではないのでその考え方に賛同していた。

 

だから、彼氏がいないときもむしろ「遊べるならいいじゃん、楽じゃん」というスタンスで、恋人がいる人に何かしらの僻みを抱くことはなかった。

 

最近恋人ができた。

恋人がもし私のせいで縛られるなら可哀想だなぁと思い、なんの気無しに「別に風俗に行ったって構わないですよ」と言ったらひどく驚かれた。友人にそのエピソードを話したら恋人と同じ反応をされて、今度はこちらが驚いた。

 

私は男性ウケするような巨乳でもないし、もしそれで彼の性的な欲求に応えられないなら、彼がお金を払って然るべきところでその欲求を発散すべきだと考えていた。とても合理的な考え方だと思うのに、何がおかしいのだろう。

 

彼からそれじゃあ、と「じゃあ、キスは?」と聞かれたときは何だか嫌だと思った。嫌です、と答えたらやっぱりおかしいと言われた。

 

なんで私、彼が他の人とキスをするのは嫌なんだろう。

下半身は良いけど上半身はダメということなのか?

男性=性器そのもので、どの男の人も頭の中は結局ヤリたい、と結びついていると思っている。それは、前の恋人だったり、読んだ本の影響から作られた思想。

つまり、私の中で本能と結びつくのは下半身。だから下半身については一種の諦めのようなものがあって、本能でどうしようもない部分なら無理に制限はしないし出来ないという考えに至ったのだと思う。

 

今の恋人と付き合っていて一番わからないのはそこだ。

「セックスって、挿入だけじゃないじゃん。イチャイチャもセックスでしょ?俺はそっちが好きだし」

と言われたときには天地がひっくり返るような思いだった。この人男なのか?と。いや、男だけど。ちょっと泣きそうになった。当時、挿入がうまくできなかったから気を遣って発された言葉だったのかもしれないけど、単純に嬉しかった。

 

少し話が逸れるが、この間サークルの合宿があった。夜はコンパがあり、酒に酔いやすい私と同期で同じく恋人がいる私の男友達はあっけなく酔った。

お互い恋人がいるし限度をわきまえた上で戯れていた…はたからみたらイチャイチャしてるように見えたのかもしれないけど、私たちにとっては動物のじゃれあいのようなことをしていた。あとで写真を見返してこれはマズイな、と思い恋人に謝った。そのときは特に咎められることもなかった。けど、後になってあれは強がりだったのではないかと思う。

 

昨日、彼のお家に泊まって夜キスをし終わったあとに、「今だけは俺に独占させて」と言われたのだ。それを聞いた瞬間なんだか胸がキューっとなった。あぁ、やっぱり強がりだったんじゃないか。と。そのあとも「○○(私)が死んだらどうしたらいいのかわかんない」と言われたり、映画の「この世界の片隅で」をみ終わった後に「あの旦那さんの気持ちは分かるな、お嫁さんを一人で独占はできないっていう諦めみたいな気持ち…」と話していて、もうひどくいじらしく感じてしまった。

 

今までなら執着が怖くて、付き合っていてもある意味での自由さを理想としていたのに、彼を傷つけたくないという気持ちの方が強くなっている。彼を不安にさせるくらいなら自由なんていらない、と。

 

恋人関係は結婚とは違って何の保証もないから、ないからこそ、お互いがお互いに誠実であること以外に信頼を築く術がないのかもしれない。人間関係というものは株価より変動が早い。恋人との関係性はさまざまな形があるとは思うけど、何よりお互いを必要以上に不安にさせないのが今唯一すべきことなんじゃないかなと思う。恋人って、一緒にいて楽しいからいるものだ。お互いふりまわされるのは嫌に決まっている。

無い

ネットサーフィンが好きだ。

 

調べたらなんでもでてくるし、関連リンクを踏んで行けば行くほど同じ事象に対して違う事柄が出てきたり、一方で言っていることの共通項もでてくるから割と正確な情報が得られると思う。

 

けど、恋愛とか、将来とか、人の経験に左右されるものって共通項が少なくて、自分に当てはまる例も皆無に近くて、調べ始めると三時間くらい費やしてしまっていることがある。

 

今日、久々に家でダラダラとした。朝のバイトから夜のバイトまで時間があったからその間ネットサーフィンと料理しかしなかった。

 

そのとき昨日のことをふと思い出した。

 

コンビニで友人たちと女性誌をたまたま広げていて、「女性の約六割が可愛いより女っぽいと言われたい!」とデカデカと印刷されていた。

それを見た友人(男女)が「いや、でも男からさ、女っぽいって言われても何!?ってならん?最低や」「え!?そうなん!?」「ったりまえでしょ、あくまで女同士の話とちゃうん?こんなん鵜呑みにする男もいると思ったら怖いわ〜」

 

ネットの情報もこれに限りなく近い気がする。情報を見ると考えられている層に合わせて書いていることも異なる。だけど、雑誌にせよ、特にネットは誰しもの目に触れる可能性がある。だから信用ならないなと思う。

 

どうして欲しい情報を手にするために三時間もスマホとにらめっこして視力を低下させているんだろう。本当にいってほしい情報なんて自分の中にあるのではないか。スマホと対峙していると一時的な知識欲と承認欲求だけを満たしているような気分になってあとで悲しくなる。

 

ネットサーフィンなんてものに意味はない。けどしてしまう。もうスマホなんて捨ててしまおうか。ガラケーの時代が一番良かった。メールをじっくり時間をかけて打つ。電話をする。電車の時間とかよくわからないし終電逃したら怖いから少し早めに解散する。インスタとかツイッターとか、他の人の動向をいちいちチェックしなくて済む。アナログが良かった。ラインの返信を気にしなくて良い世界。もう、ラインじゃなくて電話にしようよ。手紙にしようよ。ネットより、自分の経験と読書で得た知識を基盤にして行動しようよ。

 

 

そう言って実行に移そうとしない自分がいて、そんな自分がひどくもどかしい。