Serious Bunburying

隕石で手をあたためていましたがこぼれてしまうこれはなんなの

入ゼミ課題2

①志望動機

 少人数ゼミの方が自分の意見をより伝えやすいと思ったことと、現行メディアの制度の問題点を学びたいと思っていて、メディア法についても興味があったため。また、鈴木ゼミにいる知り合いの先輩の話から雰囲気が良さそうだと感じたため。

②ゼミで研究したいこと

 ジャーナリズム、メディアが社会に及ぼす影響、政治とメディア、報道制度、メディアの国際比較

③趣味・特技など

 趣味はピアノ、歌、読書、掃除、最近は料理にもハマっています。ピアノサークルに所属していて、その仲間と色々なところに行ってお話することも好きです。自分でふと気になったことを文字に起こしながらじっくり考えることも趣味の1つです。

特技と言われると難しいので、人から褒められることを。

洗濯物畳みとアイロンがけは家族の誰よりも上手です。人の話を聞くことが好きで、話すことよりも得意です。感情表現が豊かです。自分の気持ちにうそをつくのが苦手で、そこが良いと言ってくれる人は多いですが、正直すぎて困る場面もあります。

…春休み、家にいる時間が多いせいでしょうか、主婦のような回答になってしまいました。

 普段は結構アクティブでフットワークも軽いので各方面から誘われることが多いです。何にでも興味を持って、そこから行動に移すのが早いと言われます。  やらないで後悔よりやって後悔、無駄なことは1つもない、と思っているので恥をかくことが多いですがこの姿勢を貫きたいと思っています。

メディア不信 感想

 一年時に取っていた政治学の授業で日本におけるメディアとの付き合い方をディベートしたことがある。その時グループ内で上がったのはメディアリテラシー教育を徹底する、という案で、あくまで現行の制度を維持した状態でメディアとどう付き合うかについて考えていた。その理由としては、他の国では具体的にメディアが社会に対してどのように機能しているのか知らなかったことと、本書でも指摘されているようにメディアの将来が不明瞭であることが挙げられる。

 しかし、それはあまりにも考え不足だったということが冒頭の「現代社会にたちこめる『メディア不信』の空気は、個々人が『フェイク・ニュース』に騙されないように勉強し、各企業が偽ニュースを削除すれば解消されるというわけではなさそうだ」という言葉から分かった。

 “メディア不信” は発信する側と発信される側にここ最近になって問題が生じたから発生した事態ではないということ。それが一番本書を読んで勉強になった。今までずっと社会に深く根ざしていて溜まりに溜まった問題が今吹き出したのだと。それを変えるには既存概念から考え直していかなければならないと強く感じた。

 ドイツの右傾化、イギリスの大衆紙の影響力によるbrexit、アメリカのビックデータによるトランプ戦略の成功、すべては「『リベラルな民主主義』…への敵愾心」という言葉が物語っているように思う。メディアはある意味で権威だ。メディアがかつての自由主義的な立場ー権力から距離を取り監視する立場ーから、民主主義重視の立場ー民衆との対話を(ツイッターなどを利用することで)重視する立場、へと移行する中で政治家もネットに登場しフォロワーを増やし続ける。たしかに、NHKで以前ツイッターのつぶやきを番組内でも取り上げて議論する番組を見かけたことがある。しかし、そういった番組はあくまで一部であり、特に政治と関係する番組でそのような体制を取っているのはごく少数だというのが私の実感で、メディアの出遅れ感は否めない。そうしているうちに特定の政治家をフォローする人間は未だ権威主義的なメディアを叱責する。かつては市民の側にいたメディアが、政治と位置を逆転してしまった。もっともこうした現象は国民の中でも一部の右翼の人にしか当てはまらない話ではあるかもしれない。しかし、このような状況が加速すればメディアの報じている内容に関わらず、メディア自体を批判、さらにはメディアが政治の監視という役割を行使できない状態になってしまう可能性が一番恐ろしいと私は思う。

 本書でも少し触れられたが、「1984年」というジョージ・オーウェルの小説を私はたまたま読んでいる最中だった。  その世界では国家が国民生活に関わる部分のほぼ全てを管理しており、過去に起きた事態で国家にとって都合の悪いことがあれば、それに関する発行物は全て都合の良いように捨てられるか、書き直される。例えば、昨日まではA国と対戦していたのに今日からB国と対戦することになり、A国とは同盟関係を結ぶことになった、ということを国民に発表した数時間後には数年前からA国とは同盟関係であったかのように街中のポスター、雑誌、新聞すべてが回収され書き換えられてしまう。いわば過去の書き換えである。その世界に正しい歴史の証拠は存在しない。その状況も恐ろしいが、何より恐ろしいのはこれに対する登場人物の受け止め方である。主人公もその恋人も心のうちでは国家に対して反逆者であることに変わりはない。しかし、主人公は過去の書き換えに対して強い反発心を抱いていて「(現実の具体的証拠があれば)レジスタンスの小さな集まりが…記録を残すようにさえなる。…次の世代はぼくたちが途中で止めたところから引き継いでやっていける」と主張する。一方、恋人は「(事実が国家の主張と違っても)誰がそんなこと気にするの?」「わたし、次の世代なんかに興味はないの。興味があるのは今のわたしたち」と言う。「…ある意味では、党の世界観の押し付けはそれを理解できない人々の場合にもっとも成功していると言えた。…かれらは自分たちがどれほど理不尽なことを要求されているのかを十分理解せず…理解力を欠いていることによって、かれらは正気でいられる。かれらはただひたすらすべてを鵜呑みにするが、鵜呑みにされたものはかれらに害を及ぼさない。」

  一見自分たちには関係ないように思えるが、アメリカのトランプ政権をとりまく市民の反応はこれと通じるものがあるように感じた。本書にあるケリアン・コンウェイの「オルターナティヴ・ファクト」という言葉。「多くのトランプ支持者たちにとって自分たちの言い分は永遠に正当化されないし、正当化される必要もない…いつも後回しにされていた自分たちは、ようやく米国の正当な社会の仲間入りをした…トランプ政権は新たな価値創造の証であり…トランプ支持者にとって「フェイク・ニュース」や「オルタナ・リアリティ」を既存メディアやエリート知識層によって「ファクト・チェック」されることなど興味も関心もないのであろう。」

 そして、アメリカだけではなく日本人の無関心さ、言い換えれば、理解力をあえて(?)欠くことでやり過ごそうとする雰囲気もこれと似たような側面があると感じる。

 このタイプのメディア不信に対して筆者はファクトチェックではなく、社会全体をつなぐような公共的基盤を社会に提供できるかが課題だと述べている。

 私としては、まず、このメディア不信の状況が続けばどうなってしまう危険性があるのかをできるだけ多くの人々に周知させることが先決で、その上で、自分たちの行動が社会に大きな影響を及ぼすことを実感できるような仕組みを作る必要があると考える。これは私の実感だが、日本の政治に国民があまり関心を示さないのは国民からの働きかけに政治がうまく応えていないと国民が感じてしまっているからではないかと思う。世論と政治の現場の架け橋となるのがメディアだ。その未来について、メディアコムに入った今、より深く考えてゆきたいと、この本を読んで改めて思った次第である。

 

メディコムの課題。はてなブログだと字数が表示されるのでpc代りに使った。初心を忘れないためにもそのまま公開しておく。二千字超えて2500字だけどまぁ平気かな。

貞操観念

 

貞操観念:女性が、異性関係について純潔を守ろうという考えのことを幅広く指す表現。

 

私の周りの友人は、割と貞操観念に対してゆるい人が多い。若いうちは遊んどけ、という考え方の女友達。私自身も社会の暗黙のルールで自分の行動が縛られるのは好きではないのでその考え方に賛同していた。

 

だから、彼氏がいないときもむしろ「遊べるならいいじゃん、楽じゃん」というスタンスで、恋人がいる人に何かしらの僻みを抱くことはなかった。

 

最近恋人ができた。

恋人がもし私のせいで縛られるなら可哀想だなぁと思い、なんの気無しに「別に風俗に行ったって構わないですよ」と言ったらひどく驚かれた。友人にそのエピソードを話したら恋人と同じ反応をされて、今度はこちらが驚いた。

 

私は男性ウケするような巨乳でもないし、もしそれで彼の性的な欲求に応えられないなら、彼がお金を払って然るべきところでその欲求を発散すべきだと考えていた。とても合理的な考え方だと思うのに、何がおかしいのだろう。

 

彼からそれじゃあ、と「じゃあ、キスは?」と聞かれたときは何だか嫌だと思った。嫌です、と答えたらやっぱりおかしいと言われた。

 

なんで私、彼が他の人とキスをするのは嫌なんだろう。

下半身は良いけど上半身はダメということなのか?

男性=性器そのもので、どの男の人も頭の中は結局ヤリたい、と結びついていると思っている。それは、前の恋人だったり、読んだ本の影響から作られた思想。

つまり、私の中で本能と結びつくのは下半身。だから下半身については一種の諦めのようなものがあって、本能でどうしようもない部分なら無理に制限はしないし出来ないという考えに至ったのだと思う。

 

今の恋人と付き合っていて一番わからないのはそこだ。

「セックスって、挿入だけじゃないじゃん。イチャイチャもセックスでしょ?俺はそっちが好きだし」

と言われたときには天地がひっくり返るような思いだった。この人男なのか?と。いや、男だけど。ちょっと泣きそうになった。当時、挿入がうまくできなかったから気を遣って発された言葉だったのかもしれないけど、単純に嬉しかった。

 

少し話が逸れるが、この間サークルの合宿があった。夜はコンパがあり、酒に酔いやすい私と同期で同じく恋人がいる私の男友達はあっけなく酔った。

お互い恋人がいるし限度をわきまえた上で戯れていた…はたからみたらイチャイチャしてるように見えたのかもしれないけど、私たちにとっては動物のじゃれあいのようなことをしていた。あとで写真を見返してこれはマズイな、と思い恋人に謝った。そのときは特に咎められることもなかった。けど、後になってあれは強がりだったのではないかと思う。

 

昨日、彼のお家に泊まって夜キスをし終わったあとに、「今だけは俺に独占させて」と言われたのだ。それを聞いた瞬間なんだか胸がキューっとなった。あぁ、やっぱり強がりだったんじゃないか。と。そのあとも「○○(私)が死んだらどうしたらいいのかわかんない」と言われたり、映画の「この世界の片隅で」をみ終わった後に「あの旦那さんの気持ちは分かるな、お嫁さんを一人で独占はできないっていう諦めみたいな気持ち…」と話していて、もうひどくいじらしく感じてしまった。

 

今までなら執着が怖くて、付き合っていてもある意味での自由さを理想としていたのに、彼を傷つけたくないという気持ちの方が強くなっている。彼を不安にさせるくらいなら自由なんていらない、と。

 

恋人関係は結婚とは違って何の保証もないから、ないからこそ、お互いがお互いに誠実であること以外に信頼を築く術がないのかもしれない。人間関係というものは株価より変動が早い。恋人との関係性はさまざまな形があるとは思うけど、何よりお互いを必要以上に不安にさせないのが今唯一すべきことなんじゃないかなと思う。恋人って、一緒にいて楽しいからいるものだ。お互いふりまわされるのは嫌に決まっている。

無い

ネットサーフィンが好きだ。

 

調べたらなんでもでてくるし、関連リンクを踏んで行けば行くほど同じ事象に対して違う事柄が出てきたり、一方で言っていることの共通項もでてくるから割と正確な情報が得られると思う。

 

けど、恋愛とか、将来とか、人の経験に左右されるものって共通項が少なくて、自分に当てはまる例も皆無に近くて、調べ始めると三時間くらい費やしてしまっていることがある。

 

今日、久々に家でダラダラとした。朝のバイトから夜のバイトまで時間があったからその間ネットサーフィンと料理しかしなかった。

 

そのとき昨日のことをふと思い出した。

 

コンビニで友人たちと女性誌をたまたま広げていて、「女性の約六割が可愛いより女っぽいと言われたい!」とデカデカと印刷されていた。

それを見た友人(男女)が「いや、でも男からさ、女っぽいって言われても何!?ってならん?最低や」「え!?そうなん!?」「ったりまえでしょ、あくまで女同士の話とちゃうん?こんなん鵜呑みにする男もいると思ったら怖いわ〜」

 

ネットの情報もこれに限りなく近い気がする。情報を見ると考えられている層に合わせて書いていることも異なる。だけど、雑誌にせよ、特にネットは誰しもの目に触れる可能性がある。だから信用ならないなと思う。

 

どうして欲しい情報を手にするために三時間もスマホとにらめっこして視力を低下させているんだろう。本当にいってほしい情報なんて自分の中にあるのではないか。スマホと対峙していると一時的な知識欲と承認欲求だけを満たしているような気分になってあとで悲しくなる。

 

ネットサーフィンなんてものに意味はない。けどしてしまう。もうスマホなんて捨ててしまおうか。ガラケーの時代が一番良かった。メールをじっくり時間をかけて打つ。電話をする。電車の時間とかよくわからないし終電逃したら怖いから少し早めに解散する。インスタとかツイッターとか、他の人の動向をいちいちチェックしなくて済む。アナログが良かった。ラインの返信を気にしなくて良い世界。もう、ラインじゃなくて電話にしようよ。手紙にしようよ。ネットより、自分の経験と読書で得た知識を基盤にして行動しようよ。

 

 

そう言って実行に移そうとしない自分がいて、そんな自分がひどくもどかしい。

 

部屋

 

メディアコムの試験の時に、「あなたの部屋はきれいですか」と聞かれた。

 

私の部屋は基本的に洋服置き場、かつ寝床であって、それ以上でもそれ以下でもない。

家の構造からして2階に玄関・リビング・風呂・キッチン・トイレがあるのでそちらで事足りてしまう。私は家にいる日はほぼ一日中リビングで過ごす。

 

私の部屋がある1階はもう冷凍庫なみの寒さ。だから行く気にならない、というのもある。

 

だから部屋はきれいですか、と聞かれたとき、正直自分の部屋がどんな状態か思い出せなくて唖然とした。あいまいに「今はきれい(なはず)です」と答えたが。「今は、とは・・・」と教授もぼそぼそ言っていたけど。無視して面接室を出たのは記憶に新しい。なぜ受かったのか。

 

友人の家や、雑誌を見ているとみんなかわいらしく壁なんかもコラージュしていて本当に良いな、と思う。

 

私の部屋は机もベットも壁も真っ白なのでなんというか、生活感がない。洋服だけは机の上に積まれている。

 

大学一年を終え春休みに入るんだから、せっかくだし模様替えをしたいと思い立ったのが今。

 

間取りとか一切考えずに妄想をする。

 

壁は薄いピンク。ベッドには気持ちよさそうな抱き枕と花の刺繍が施されたクッションがいくつか。それと間接照明のランタンがベッド横に置いてある。

机の上にはペン立てとハーバリウムの花。足元には小さなヒーター。アロマディヒューザー機能つきの加湿器。

 

床には洗いやすいけどフカフカした、それでいてゴールドの糸で刺繍の入った絨毯。小さめ。

あと、本がおけそうなミニテーブルもほしい。そこに白の丸い形のキャンドルを瓶に入れて置きたい。その横にはマッチの箱。

 

カーテンはレースのカーテン。カーテンをとめる紐はリボンがいい。

 

窓際には観葉植物。日がよく入る部屋だから2つくらい置きたい。

 

それと全身鏡。

 

忘れちゃいけない、本棚。机のすぐ横に置きたいな。そこにも観葉植物か軽い雑貨を置いたりして。

 

・・・・最高だな・・・・・。

 

彼氏とかが来たら「女の子っぽいな」って思ってくれそうな部屋がいい。もちろん鼻につかない良い匂いがする部屋。そこに紅茶と手作りの焼き菓子を出してもてなしたい。女子がきてもそうしたい。

 

せっかくならルームウェアもほしいな。ジェラートピケの。もこもこしたロングカーディガンに、サテンのパジャマシャツ、これまたもこもこしたショートパンツ。靴下ももこもこが良い。

もしくは長めのチェックのパジャマワンピに毛糸の靴下、もこもこのケーブル編みのロングカーディガン。スリッパも。

 

休日はかかさず床拭いて「はーさっぱりした!」って言ったあとに晴れたベランダに布団を干したい。

 

・・・・人間って快適さを追求するための妄想力に富んでるなぁ。経済も回るわけだ・・・・・。

 

 

 

 

 

感情表現

ちょっと最近、うれしいことがあって、というか良いことしかなくてルンルン。

 

自分、愛されてるなって感じることが多いです。

今までは自分の居場所がここで正しいのか、いてもいいのか、みんなみたいに面白くないけど、頭もよくないけど良いのか、って考えがちだったけど

最近はそういうことをいつの間にか考えなくなってて。

先輩たちが、私がいると周りが明るくなるよね、とか、1年生の中でも愛されてるよね、って言ってくれたからかなぁ。

かなりうれしかったなぁ。

 

今までだって多分愛されていたけどそれに気づけていなかっただけなのかもしれない。

 

人に言われないと気づけないことっていっぱいある。

 

たとえば

仲の良い人が自分に見せるまなざしのやさしさとか

くだらない会話とか

ぽろっと見せてくれた本音とか

 

そういう中に、信じられないくらいの好意が込められてるんだけど

たいてい気づかすにスルーしちゃう。

 

もったいない。

 

 

近頃はどんな人も自分のこと好いてくれてるって思うようにしてます。

たいてい、嫌われないし。嫌わないし。

 

自分にとっての欠点だって、むしろ愛おしいって思われるポイントなのかもしれない。長所で好きになり、欠点で愛する、って何かで読んだな。

 

 

愛情表現が大げさな人ほど好かれる、っていうのもそういうことなのかな。

誰だって会いたいって言われたらうれしいし、自分に興味を持ってくれたらうれしい。

 

この間1つ、私の男友達に教えてもらったことがある。

好きだという気持ちを知られてしまったら嫌われてしまうのではないか、特に恋愛感情において。

そう思っていて、うっかり好意をにじませた発言(LINE)を訂正しようとしたのだけど、

「そういうのよくないよ」と。

たった一言だったけど、最近彼女ができた彼の言葉だったから素直に受け入れて放置しておいたら、相手からもうれしそうな返事が返ってきて。心底安心した。「ドン引かれてたら・・・・」って返信が返ってくるまで気にしすぎてため息が止まらなかったから。

 

本当に好きであるほどその気持ちを素直に表現できない。重すぎるほどの大きい愛情が本人に否定されたら、もう立ち直れないような気がするから。

大人になればなるほど素直に言えなくなる。気がする。

けど、もうそんな臆病になる必要ないんじゃないか。そういういらないプライドなんて捨ててしまえばいいじゃないか。好意は見せても不幸になる人はいない。

 

新年、信念

はいはい、明けまして新年。おはようございます。おめでとうございます。

 

抱負を考えなきゃ、といそいそとPCを起動させました。最近文字化させないと考えを整理できないの、本当に困る。

 

去年の抱負はずばり「楽しむ!」だったんだけどそれはバッチリ達成できたと思う。悔いがないくらい遊んだ。近頃になって1女らしくはなかったこと、周りに引かれていたかもしれないな~ってうっすら感じるようになった。先輩たちが良い人達でよかった。多分他サーだったら8回は襲われてる。はぁー楽しかった。何にせよ振り切れなきゃね。お母さんお父さん、悪い娘でごめんなさい。

 

でも一つのことに振り切れるとどこかしら犠牲はでてくるもので。

まぁ単位だよね。

ちょっと勉強おろそかにしすぎてしまった自覚はある。高3の頃の私が今の私を見たら絶対怒る。勉強に対するストイックさが違いすぎる。

 

そんなわけで今年は締めるところは締める年にしたいな、と。

勉強・レポートの期限しかり財布しかり身体しかり遊び方しかり飲み方しかり・・・・・・。締めるとこは締めたいなぁ。

 

メディコムに入所できたことは私に3つの恩恵を与えた。

1つ、将来についてきちんとした見識を持った教授の下で考えられるようにしたこと。

2つ、苦手なディスカッションやプレゼンを少人数で学ぶことで鍛えられるようにしたこと。

3つ、見た目への意識の向上。

 

ん?3つ目なんかおかしくない?・・・・や、おかしくない。

一次試験のときも二次試験のときも思ったんだけどみんな顔面偏差値とスタイルが異常に高い。やっぱアナウンサーとか目指してる人が多いからなのかな?試験中そればっかり気に取られてしまった。このままだと入所してもやばい・・・・。そんなわけで痩せなぁと日々思う。うん、痩せよう。具体的なことはまたあとで紙にでも書いてまとめよう・・・・。

 

遊び方。男子の家に泊まるのはどうなんだろう。ポンコッペとかに「どう思う?」って聞いたら「人それぞれなんじゃない」って肯定なんだか否定なんだかよくわからない答えが返ってきたけどとりあえず肯定だと取っておいた。

けど、美容院とか初対面とかの人によく言われるのは「悪いことしてなさそう」「ザ・温室育ち」みたいな印象。雰囲気からしてそれがでちゃってる。

それがちょっと嫌で、そのまま大人になるのが嫌で、酸いも甘いも悪いことも経験したうえで大人になりたくて。だから、大学生になってから今までとはまるで真逆の生活を送ってみた。(たまに、「やっぱり健康になりたい」ってなることも多々あったけど)

で、どうだったかというと。もちろん楽しかった。今だって楽しい。10代最後の一年の夜に少し年上の先輩とふざけつつ深い話をしたり、同じ学年の女子とサシで哲学的な話だったり女子ならではの恋愛に立ち入った話をするのは本当に価値があった。

けど、、、なんだろう。今まで生きてきた19年間の人生がそれは私の肌に合わない、となんとなく告げている気がする。すごく楽しいのに。もっと続けたいのに。

 

一週間に2日はどうしようもないくらい自堕落になって夜遊びしたい。もう一週間に2日はふらっと部室に寄って軽くおしゃべりしたい。一日のうち3時間は一人になりたい。一か月のうち一週間はとにかく働きたい。

 

自分の欲求と、今までの環境の差が大きくて、どれが本当の私なのかな?ってなる。この欲求は見かけだけのもの?本質的な私の欲求ではないの?んんー自分でも何言ってるのかわからなくなってきた。

 

今まで。

今までは萩さんに言われたように、外れた道を進んだことはなかった、と思う。

テストでは満点以外目指したことはなかった。居眠りなんてしたことなかった。部活をサボるなんてしたことなかった。むしろどうしたらもっとうまくなれるのか、自分でもいろいろ調べたりして。人間関係の上でもやりすぎなくらいマメだった。あ、忘れ物はよくしていたけど。スポーツもできなかったけど。通学しながら今日こなさなきゃいけないことを長期計画と短期計画で見比べて決めていた。仲間にも恵まれていた。恋人にも。

でも、本当に真面目だったから他の人から少し距離を置かれることもあって、変に理想化されることもあって、それが悲しくて、何がレールに沿った人生だ、このままじゃつまらない大人になってしまうのではないかって自己嫌悪して。けど特にレールに沿った人生だからって苦労することはないってわかってるからそこに安住して。

 

 

今、どうしたいのかな。大学生になったらレールから外れたこともいっぱいしなくちゃって思ってしてみたけど、そういうことをするたびにちっちゃく罪悪感が生まれて。肌に合わないなぁって思うけどでもつまらない大人にだけはなりたくないから意味があるのかも分からないまま遊んでみた。遊びが、つまらない大人、つまる大人になることに何か作用するのかもわからないまま。

 

 

わからない。

 

 

「目的をもって動け」という人、「目的なんてなくていいから、その場その場で全力を出し切れば自然と良いところに落ち着く」という人。

みんな言うことが違っている。だって、自分の経験則からしか人は物を言えないから。

 

 

高校卒業したとき、一つ、こんな大人になりたいな、という夢を掲げた。

「芯や信念を持っていてそれに沿って行動できる大人になる」

 

1年生になったとき「この一年はとにかくいろんな経験をする」と決めた。自分の中で芯になるものを持つために。

 

学んだことは、

無理に人に合わせようとしなくても生きていけるということ。

フットワークの軽さは良い面も悪い面も表裏一体ということ。

人は言葉に出さないけど誰しもが考えているということ。

だけど、言葉でしか意思疎通を図れないからある程度の妥協を覚え、最大限の努力をすること。他人のことをすべて理解できるとおもわないこと。

恋人がいることで得られるのは寛容さ、柔らかさ、そして少しの色気。

必要以上に忖度する必要はないこと。甘えるのも大事だということ。

自制心はある程度必要だということ、でもある程度でいいということ。

人間関係を円滑にするうえで一番大事なのは寛容さであるということ。それは「自分は自分、他人は他人」と割り切るという残酷さとも一致すること。

学生ならではの特権は、恥をかくことを奨励されること。

愚痴はたまにこぼしてもいい、けど悪口は醜いということ。

疲れと眠気は目に一番出るからそういうときは他人に悟られる前に自分で対処すること。笑顔でごまかそうとしても無駄。

自分にウソをつくことが私は人よりも苦手だということ

 

・・・・・書いてみるといっぱいあったなぁ。思ったより学んでいることがあったらしい。そういう意味ではこの一年無意味ではなかったのか。

 

自分の経験則からしか人は物を言えない

 

さっき書いていたときは気づかなかったけど、これって真理だなぁ。

 

うーーーーん、新年の抱負を書くつもりが収拾つかなくなってきてしまった。また続きは気が向いたら書こうかな。